森鴎外没後100年記念事業「読み継がれる鴎外」シンポジウム

森鴎外没後100年記念事業
「読み継がれる鴎外」シンポジウムを開催

明治の文豪、森鴎外の没後100年を記念し、2022年7月3日(日)、文京区本郷・東京大学伊藤謝恩ホールにおいて、「読み継がれる鴎外」をテーマにシンポジウムが開催されました。第一線で活躍されている作家や研究者を招聘し、いま鴎外を読む意義や魅力などについて語っていただきました。
以下は当日の内容の要約です。(編集:シンポジウム事務局)

ゆかりの地から ご挨拶

森鴎外 終焉の地: 文京区長 成澤廣修

文京区は鴎外が後半生を過ごした地であり、終焉の地でもあります。昭和37年に旧居の観潮楼の後に文京区立鴎外記念本郷図書館を建設し、その一角に鴎外記念室を併設したことから、その歩みは始まりました。生誕150年の2012年には観潮楼の地に現在の文京区立森鴎外記念館を設立。今年一年間は、『鴎外100年の森へ』と題した様々な事業を展開中で、特別展『写真の中の鴎外』をはじめ、シンポジウムのテーマでもある『読み継がれる鴎外』も開催しています。
鴎外没後100年をイメージしたロゴマークは、文京区内の都立工芸高等学校の生徒たちによってデザインされ、商店街のフラッグやポスター、コミュニティバスなどに使われています。生徒たちは実際に鴎外の著作を読み、区内に残る鴎外の様々な歩みをフィールドワークで感じてデザインしました。その意味では、デザインに関わった生徒たちそのものが、“読み継がれる鴎外”の当事者です。このシンポジウムが鴎外への新たな気づきとなり、互いに学びの日となることを願っています。

写真:文京区長 成澤廣修氏

森鴎外 生誕の地: 津和野町長 下森博之

鴎外の没後100年、生誕160年でもある今年、津和野においても一年を通して様々な記念事業を計画しており、開業100年周年の津和野駅と鴎外没後100年を掛け合わせたイベントも開催予定です。開業日の8月6日には、以前NHKドラマ『坂の上の雲』で鴎外を演じた俳優の榎木孝明さんに列車に乗ってもらい、10歳で津和野の離れ、二度と故郷の土を踏むことがなかった鴎外の夢が叶ったというイベントも計画しています。また、大妻女子大学の須田喜代次先生、都留文科大学の田中実先生をはじめ、鴎外研究の第一人者を招聘した5回の鴎外講座では『舞姫』や『鶏』といった作品を題材に、どのように読み解いていくのかを学んでいます。11月に開催予定の最後の講座では、津和野町立森鴎外記念館館長、跡見学園の山崎一頴先生に、“石見人 森林太郎トシテ死セント欲ス”という言葉の意味についてお話いただきます。
節目である没後100年が過ぎても、歴史と文化の町、津和野の偉人である鴎外の研究と検証事業を進めていきたいと思っています。

写真:津和野町長 下森博之氏

森鴎外 転機の地: 北九州市長 北橋健治

鴎外と北九州との関わりは、陸軍第12師団の軍医部長として2年10カ月着任したことに始まります。この間、小倉三部作と呼ばれる小説を執筆したほか、10年がかりで『即興詩人』の見事な翻訳を完了するなど、素晴らしい活躍をしました。一方、当時は官営八幡製鐵所が創業を始めた時代で、鴎外は石炭と鉄、港湾と鉄道という近代国家の劇的な歩みを体験しています。その体験が温もりのある眼差しを育み、さらなる飛躍へとつながったのではないかと思います。鴎外はこの地に文化の種を蒔き、大事なものを残してくれました。
小倉からは多数の作家や芸術家を輩出していて、本日ご登壇の平野啓一郎さんや平出隆さん、さらに松本清張の出世作、芥川賞作品は『或る『小倉日記』伝』です。これは鴎外という偉人がここで様々な体験をし、優れた作家としてのスタートを切ったという誇らしい歴史がその力になっているのでしょうか。文化芸術によって都市の創造を期すイニシアチブを執られた文京区、優れた文化芸術を大切にされている津和野町。私たち自治体も、2つの自治体をモデルにしつつ共に連携し、鴎外の検証に努めていきたいと思います。

写真:北九州市長 北橋健治氏

ベルリン・フンボルト大学 森鴎外記念館 館長 ザロモン・ハラルト博士

ベルリンより、森鴎外没後100年記念事業「読み継がれる鴎外」シンポジウムに寄せて

(メッセージをお寄せいただきました)

森鴎外の人生と作品の多彩さには目を見張るものがあります。それゆえ、鴎外研究に取り組むことは、謙虚さを学び、自身の個人的な限界を知ることでもあると実感します。この認識のもと、ベルリン・フンボルト大学森鴎外記念館は、研究および展示の対象を、鴎外の若き日のヨーロッパ体験と、それがその後の彼の歩みにもたらした影響とに絞っています。特に重点を置いているのは、鴎外とベルリンという町との関係です。ベルリンは鴎外にとって、科学と個人的な自由のシンボルだったのだと、我々は考えています。
異文化との出会いを通してインスピレーションを得るという体験は、よく知られているとおり、明治時代にアジアとヨーロッパで教育を受けた日本の知識人の一世代に共通のものでした。しかし鴎外は、早くから「大学の自由」を熱心に支持し続けた点で、他の同時代人とは一線を画しています。たとえば、一八八九年には、まさに「大学の自由を論ず」というタイトルの論考を『国民の友』誌に掲載して、自由な学問文化の利点と、その文化によって自立した責任感ある個人を育成することの意義を訴えました。
フンボルト大学において、日本出身の著名な同窓生である鴎外の遺産は、彼の没後百年にあたる二〇二二年のいまも受け継がれています。科学と文化における日独関係の象徴として、鴎外は日本文学や日本史を学ぶ学生たちにとって刺激的な存在であり続けているのです。また、日本の皆様に特にお伝えしたいと思うのは、鴎外の文学作品が、翻訳版や原書で、いまも若者たちに読まれているという嬉しい事実です。『舞姫』をはじめとした代表的な鴎外作品は、ヨーロッパの若者が日本人による世界観に触れ、グローバルな視点で思索することを学ぶ一助となっています。それを知れば、鴎外もきっと、自身の仕事がもたらした意外な収穫だと喜んでくれるのではないでしょうか。
初夏のベルリンより、「読み継がれる鴎外」シンポジウムが、興味深く、知的刺激に満ち、実り多いものになりますよう、お祈り申し上げます。

写真:ベルリン・フンボルト大学 森鴎外記念館

基調講演 「鴎外を今読むこと」

小説家 平野啓一郎

生きていたら、何を考え、何を語っただろう

森鴎外の没後100年をどのように捉えられるのか。冒頭、平野氏の問いかけから基調講演は始まりました。鴎外という遠い存在の人を100年という年齢に置き換えてみると、身近な接点を探ることができるかもしれないと平野氏はいいます。自身の体験として、「昨年亡くなられましたが、在命であれば今年100歳を迎えていた瀬戸内寂聴さんが生まれたとき、鴎外はまだ生きていました。僕は瀬戸内さんが在命中、谷崎潤一郎や川端康成など、文学史の中でしか知らなかった作家の話をいきいきと聞かせていただき、文学史に血肉が通っていった経験があります」と振り返りました。

写真:平野啓一郎氏

続けて、平野氏は60歳で亡くなった鴎外が、もう少し長生きしていたらどうだっただろうと、新たに問いかけます。鴎外が亡くなったのは第二次大戦前の1922年ですが、仮に80歳になる1942年まで生きていたら、日本は太平洋戦争が始まっている時期です。文学者であると同時に軍人、軍医でもあった鴎外が、「その頃まで生きていたら日本について何を考え、何を語ったでしょうか」。

特に鴎外の諦念という思想について、「日本が激動の時代に突入していったとき、この思想はどんな意味を持ち得たのか、諦念で良かったのか、あるいは違った思想が生まれていたのか」。さらに、90歳になる1952年まで生きていたら、鴎外は戦後の復興を見ることになります。「短編『普請中』の中で、日本は近代化の途中だと書いていた鴎外が、戦後の復興の中で、この作品をどう振り返っただろうか。さらに、その後も生き残って、谷崎潤一郎や永井荷風といった人たちと交流が続いていたら、あるいは鴎外から大きな影響を受けた三島由紀夫と戦後に対面していたら、どんな変化があっただろうか」と、平野氏は想いを馳せます。

鴎外は夏目漱石と並んで日本の近代文学の源流の一人であり、仰ぎ見る存在として認識されていますが、100年という年齢を意識して鴎外の作品や思想から捉え直してみると、私たちにも案外身近な存在として感じられるのはないでしょうか。

鴎外の魅力 その1
優れた語学力で多数の作品を翻訳
多くの作家に大きな影響を及ぼした

鴎外には様々な魅力がありますが、平野氏にとっての驚きの一つは語学力の高さだったといいます。「鴎外は早いうちから外国語を習得し、漢文から江戸時代の日本の文学、黄表紙本に親しむなど、これほどの言語能力を備えている作家は今日ではなかなか見当たりません」。特にドイツ語が達者で、生涯に多数の翻訳作品を出版しました。例えば、ゲーテの『ファウスト』や『諸国物語』など、当時のヨーロッパの面白い短編を数多く訳したほか、オスカー・ワイルドの『サロメ』など、意外な作品を最初に訳した一人でもあります。さらに、『即興詩人』は、鴎外の小説と同等なほどに、当時多くの作家に大きな影響を及ぼしました。

鴎外は最初に蘭学を、その後にドイツ語を学びました。平野氏によれば、「『ヰタ・セクスアリス』という作品には、ドイツ語を習得していった経緯が詳細に記されています。単語を機械的に暗記するのではなく、その構成から考え、いくつかの接頭辞を覚えれば自動的に複数の単語が習得できる形で勉強していったことが書かれています」。

鴎外の魅力 その2
あらゆるテーマを包摂する大きさと
純粋で純度が高い文体

次に、多くの作家が魅了されるのが鴎外の文体です。平野氏もまた、鴎外を好きになった最初の理由は文体だったと述べています。自身も北九州市出身で、鴎外は親しみのある作家だったものの、きちんと作品と出会ったのは小学校高学年で読んだ『高瀬舟』でした。「あの文体が素晴らしいと評価できる読書家ではなかったのですが、読んでいてある種の心地良さを感じたのは覚えています」。ところが中学生になった平野氏は三島に傾倒していきます。「三島のきらびやかで華麗なレトリックが駆使されている文体に夢中になっている間は、鴎外の小説は渋すぎました」。そして大学生になり、小説家になりたいと考え始めた平野氏は、漱石や鴎外、芥川の全集を読破したといいます。

写真:平野啓一郎氏

その中で、平野氏が予想外にも最も好きになったのが鴎外でした。巻を追うごとにのめり込み、強い影響を受けたのが文体です。「鴎外の文体は漢文の骨格がありながら、語学に堪能だったことから、地の文にもドイツ語やフランス語がそのまま用いられている箇所があります。日本語と欧文脈が複雑に混ざり合いながら、ある格調高さに到達している希有な文体です」と強調します。

続けて平野氏は、「鴎外の文章は明治になって日本が近代化していくときに、欧米の概念やモノの考え方、文章の構造をうまく導入した文体だったと考えられます。そうした意味で鴎外の文章は非常に純度が高いのです」。例えば、ロダンのアトリエについて描いた小説『花子』を読むと、「バッハの『ゴルトベルク変奏曲』の最初の数曲を聴いているような、純粋で純度が高く、澄んだ響きのある文体で、心洗われるところがあります」。しかし、純粋さを感じるが故に扱えるテーマが狭いかというと、必ずしもそうではないと付け加えました。

鴎外の文体は、哲学的な思弁から歴史的な思索、嫁姑のけんかまで、あらゆるテーマを包摂し得る大きさを持っているのが特徴だといいます。「鴎外は『追儺』という作品の中で、小説は何をどのように書いてもいいと定義していますが、まさにこの思想にマッチした文体を持ち得たのが鴎外でした」と指摘。実際、鴎外の文体の魅力を“大きなもの”と評価していた三島の例を挙げた上で、「僕も全く同じ意見です。鴎外の文体のリズムや論の運び方を大学時代に積極的に摂取したことが、いま小説を書いている僕の基礎となり、大きな意味を持っていると感じています」。

『高瀬舟』で読み解く二つのテーマと
矛盾の中で裁かれる命への問い

鴎外は衛生学を学んだ医師であり、科学者でもありました。鴎外が科学者であったことは短編の条件設定が非常に厳密なことからも窺え、鴎外の書いた多数の短編には、その都度、詳細な条件設定がされていると平野氏は述べています。例えば、鴎外作品の代表作の一つである『高瀬舟』。この作品は『高瀬舟縁起』という鴎外の自作解題を通じて、“足ることを知る”と“安楽死”という二つのテーマを提示しています。

特に、安楽死を考える上で、『高瀬舟』には下記のような細かい条件設定がされていると平野氏は紹介しました。

●『高瀬舟』における6つの条件設定

  1. 弟を殺してしまう喜助と弟の2人だけで、他に同意を取るべき親族がいないこと。
  2. 喜助と弟の関係は良好で、弟を最後に楽にしたいという動機以外のものがなかったこと。
  3. 弟が不治の病で、そのことをずっと兄貴にすまないと負担を感じていたこと。
  4. 長い熟慮の末、弟が首に剃刀を刺して自殺未遂した後、この状態から当時の医学では恐らく救う術はなかったこと。
  5. 最終的に弟が安楽死させて欲しいと言明し、自殺幇助の実践者として兄を指名していること。
  6. これらが完全な密室の中で、ある意味では私的な空間の中で行われていること。

法律がどうかはともかく兄弟の間では合意し、納得した上での出来事だったとされています。「鴎外は厳密に条件を設定し、この問題をどう捉えるかを読者に問うています。それが自然な流れの格調高い文体の中で説かれているので、スルスルと読んでしまいますが、実は鴎外が非常に注意深く物語を描いていることがそこから見てとれます」。

さらに平野氏は、あまり注目もされず鴎外もこれをテーマとして強調していないが、もう一つのテーマがあると明らかにします。そもそもこの兄弟は社会的に見捨てられた二人で、ただ生きているだけの貧困状態に置かれ、政治権力は二人の生死には何の関心も示していません。そんな中で自殺幇助の殺人が起こると、途端に政治権力が介入して兄を罪人扱いします。「この矛盾は、現在のように貧困が大きな社会問題になっている時代にあっては、特に重要です。最近の現代思想の中でも、ただ生きているだけの人間の状態を古代ギリシャの概念に由来するゾーエー(zoe)、社会的な人間の生き方をビオス(bios)と呼んで、二つを区別しながら議論されます。まさに鴎外が描いた喜助たちは、ゾーエーの状態の生であり、これを主権がどう判断するかという極めて高度な政治的な問いになっています」。

小説の最後は、役人が自分で考えることをやめ、奉行の判断に従うしかないという結論になっています。「若いときに読んだ僕は釈然とせず、こんな終わり方でいいのかと感じていました。しかし、今日の政治思想の中で考えてみると、このような状態で起きた殺人を主権がどう判断するかという鴎外の着眼は、非常に鋭い政治的な問いを含んでいたと思います」と、平野氏は強調しました。

生々しい身体感覚で人間の身体を感じる一方で、
公衆衛生に携わる側から人間の身体を認識

鴎外が衛生学を学んでいたことは、近代の作家として大きな点だったと、平野氏は考えています。というのも、フランスの哲学者フーコーは、「生政治」という概念を提示しました。近代以前の政治権力は生殺与奪の力を持ち、領民を生かすも殺すも権力者次第でしたが、近代以降は国民に教育を授けて健康管理をし、労働力として管理することで国を発展させていくタイプの権力の在り方に変化してきました。フーコーは、こうした権力に基づく政治を「生政治」と呼び、その中で最も重要なセクションは、今日でいう厚生労働省のような公衆衛生学だと力説しています。

写真:平野啓一郎氏

鴎外は、まさに近代における権力の中枢である公衆衛生学をドイツで学んできました。「鴎外は女性との関係を通じ、生々しい身体感覚の中で人間の身体を感じ取っていたのとは全く違った視点で、国家の中で人間の身体がどう管理されているのか。そしてそれは法律やシステムを定める側の制度設計や社会のデザイン次第でどのようにでもなり得ることを認識する立場から、かたや人間の身体を見ています」。実際、一人の人間としての身体感覚を持って、『ヰタ・セクスアリス』のような作品を書き、自分がこの身体をもってどのように性的なことに関わりながら生きてきたのかを記録する面もありました。もう一方では、公衆衛生学に携わる人間として国民の身体を見る、システムの側から見る認識を持っていました。「これが同時代の日本の作家の中では、鴎外が非常に特異なところだったと言えると思います」。

不可抗力の中で生きている人間の人生を
諦念という優しい眼差しで受け止める

鴎外の作品の中で、その思想がなかなか掴みにくかった平野氏が、あらためてその魅力に気づいたのは、一人の人間の人生への優しい受け止めだと述べています。人生を取り巻く不可抗力的な条件の中で、人間の自由意思はどこまであるのか。人間は、その人生を自己責任論的に捉えることができるのか。「むしろ様々な不可抗力、例えば法律や時代、社会制度、性差。あるいは意識的、無意識的なものが複合的に集まって一人の人生を形づくっている。その中で鴎外の認識は、その人がこんな人生を辿ったことに対して、いわば反自己責任論的な、それはしょうがなかったのではないかといった描き方をしています」。

鴎外は基本的に短編作家で、ある出来事についての事情をずっと描き、読み終わった読者はしょうがなかったのではないかという気がしてくる。そこを自分の努力でなんとかできただろう、もっと頑張れとはならない。様々な不可抗力の中で生きている一人の人生を、不可抗力な条件の中から見る眼差しは、しょうがなかったのではないかという一種の優しい受け止め方だと平野氏は考えています。「言い換えれば、それが諦念という鴎外の概念だったのではないでしょうか。自分の人生はもっとこうできたかもしれない、こうしたかったのにという様々な思いはあっても、しかしそれは仕方がなかったのではないかということが、鴎外の基本的な認識だったと思います」。

官僚と文学者という二重性
矛盾の中で生きたことが鴎外文学の魅力

鴎外は制度設計をする側にいながら、その制度の中で生きるという二重性を生きています。一方では官僚、もう一方では文学者という立場で、その両者の中の矛盾を生きていたことが鴎外文学の魅力ではないかと、平野氏は述べています。

写真:平野啓一郎氏

例えば、『舞姫』。主人公の太田豊太郎は貧しい踊り子と恋に落ちて妊娠までさせ、出世に目が眩んで彼女をドイツに置いてきたとんでもない男だというのが、多くの人が『舞姫』を嫌いになる理由です。しかし丁寧に読み返すと、太田が自分の出世欲を語っている場面は全くありません。彼は神童と目されるような頭のいい青年で、親の期待もあり、加えてドイツ留学もしています。頭の良さから周りに便利に使われ重宝がられた人間ですが、結局周囲の期待のままに動いているだけだという殺伐とした思いを描いています。そして、よくわからない理由で同僚たちから嫌われ、その中でエリスという女性と出会います。そこへ親友の相沢が日本から来て、せっかくドイツに来ているのに仕事もできなくなって、踊り子との恋愛に唯一の慰めを得ているような生活を知る。そのなりゆきは仕方がないが、能力のある人間はこんなところでくすぶっていてはだめだと、相沢が全てのお膳立てをして彼を日本へ帰国させてしまいます。

『舞姫』を読んでみんながフラストレーションを感じるとすれば、太田が出世の権化のような人間でエリスを足蹴にしたからではなく、あまりにも受動的に流れのままに生きていて、そこに自分も不満を抱えつつ従っている。その生き方が太田に対するフラストレーションの正体なのではないかと、平野氏は指摘します。

鴎外の作品は、一人の人間が様々なものに流されながら結論に至ったことを淡々と描いていくものが多く、小説の登場人物としてはあまりヒロイックではない。小説の主人公には己の意思と努力によって様々な困難を克服し、最後はハッピーエンドに至る。それが、主人公に私たちが期待することですが、鴎外はそうした描き方をしません。制度や社会の仕組みの中でヒロイックではない登場人物が翻弄されていき、物語としてはこれでいいのだろうかと思わせるところがあります。平野氏は、「しかし、ままならない世の中で、自分の人生がうまくいかないという思いを抱えているときに鴎外の小説を読むと、そこに慰めというのか、仕方がなかったのではないかと思えることが読者の胸を打つのではないでしょうか」と締めくくりました。

パネルディスカッション 「読み継がれる鴎外」

写真:パネルディスカッションの様子

ディスカッション進行: 平野啓一郎

パネリスト: 
小説家 青山七恵
詩人・多摩美術大学名誉教授 平出 隆
日本文学研究者・早稲田大学特命教授 ロバート キャンベル

情緒たっぷりのセンチメンタルな恋を
自由にワイルドに描いた『雁』

青山氏が、鴎外作品の中で最も好きなのは、20代半ばで読んだ『雁』。一読して、これはメロドラマだと軽い衝撃を受け、鴎外がこんな作品を書いていたことに驚いたと振り返ります。それまで鴎外に対し、文章が鋭利で取っつきにくい印象を持っていたところ、「『雁』のようにセンチメンタルな小説を書いていたことを知り、少し見方が変わりました。作品自体にも惹かれたし、それがきっかけで他の作品も読むようになった思い出深い一冊でもあります」。

写真:青山七恵氏

青山氏は、この小説の構造が気になった理由として、語り手の僕、岡田とお玉から聞いて作った話にしては、三者が知り得ない内容を長々と詳細に書かれていることを挙げました。それは主にお玉を囲っている旦那の末造のことで、あくまで脇役にすぎない末造の奥さんとのけんかや寝室の様子まで書かれている上、全体の約3分の1が費やされていると指摘します。「全体の構成から見たらそれほど書かなくてもいいのではと思う反面、末造のパートは愛嬌があって私は好きです。逆にその部分がなかったら、『雁』はもう少し線の細い作品になっていたのかもしれません。また、末造のパートは鴎外がノリノリで書いている印象も受けます」。

『雁』は当初、雑誌『スバル』に毎月のように掲載されていたのに、後半になるにつれて間が空くようになり、24章のうち21章まで書かれた後に2年間も中断。ただ、中断していた2年間、鴎外が書きあぐねたり、スランプに陥っていたのではなく、その間に多くの小説を発表しています。『阿部一族』や『山椒大夫』も、この間の作品で、作家としては充実した時期だったと考えられます。そんな中で、なぜ『雁』だけが2年も放っておかれたのか。そして2年の中断後、唐突に話が転換します。青山氏は、「大胆な話題の転換の仕方も面白いところです。『雁』は情緒たっぷりのお玉の悲恋物語ですが、繊細な題材とは全く逆の自由闊達で矛盾もあり、なおかつ大胆な場面転換もあり、著者が決めた体裁を悠々とはみ出していくようなワイルドな書かれ方がされていて、そこがこの作品に惹かれる理由の一つです」と述べています。

写真:青山七恵氏

さらに鴎外は、様々なものの板挟みの中で書いてきた人間だと青山氏は分析します。家の中と外、個と組織、東洋と西洋といったものの間に立って書き、『雁』の中でも、鴎外を思わせる語り手の僕は、お玉と岡田の間に立ち、二人の運命を分かつ間接的な原因になっている人であり、『雁』を書くことで言葉の上で岡田と再会させている張本人だといいます。「鴎外は、常にそうした大きい二つの相対するものの間にいました。なおかつ鴎外自身も知識と教養と経験から、とても大きいものを見ていた作家でありながら、お玉のような小さい場所で小さい時間を生きる小さい存在に目を向け、さらに最後まで投げ出さずに書き切ったことに対して、あらためて鴎外という作家に敬愛の情が湧きました」。

平野氏は、お玉という女性の描き方について、「連載を再開した後、二人の恋は成就するのか、あるいは悲恋に終わるのか。お玉の人物造形上、鴎外に迷いがあったと思いますか」と青山氏に問いかけました。

青山氏は、二人がうまくいくといいと思う一方で、それでは嘘くさくなるとした上で、「私はどうしても『舞姫』のエリスを思い浮かべてしまいます。エリスの場合は母親で、お玉は父親ですが、それぞれ養うべき家族がいて、自分がお金を稼がなければならない境遇にあるのは重なるところです。だから、中断してこのままなかったことにはできなかったのではないかと勝手に想像しています」と、回答しました。

鴎外の描いたエリスもお玉も可哀想だという平野氏は、「男尊女卑の時代の女性の境遇に、自然に憐憫の情を抱くように書いているのは鴎外の一つの女性観ですが、貧しくて社会的地位の低い女性はそう扱われてもしょうがないとは決して書かないことが、鴎外の女性観の見るべきところです」と述べました。これに対して青山氏は、エリスは可哀想だが、お玉にはそうした気持ちにならなかったとし、「悲しい結末ですが、お玉はこのことがあっても生きていけるのではないかと思わせるものがあります。そこが『舞姫』と『雁』の悲恋物語の後味の違いで、興味深いところです」と結びました。

文学と美術の枠を突き抜けていく
そこに広大な時空が広がる

北九州市出身で、小倉の中学、高校に通い、鴎外の家まで思い浮かべながら作品を読んできたという平出氏。1998年から一年間ベルリンに住み、鴎外の『小倉日記』と『独逸日記』が一巻に収まった文庫本を持って時々開きながら町を歩いたといいます。「その中で、鴎外の空間と時間をテーマに考えることが多くなりました。また、河原温という世界的な現代美術作家がいます。この河原温の芸術と鴎外の時間空間意識が、あるときから重なって見えてくるようになったことについてお話します」。

写真:平出 隆氏

平出氏が鴎外の特徴として挙げたのが、日記の在り方と地図の在り方です。まず鴎外の日記について、下記の6冊を取り上げました。

●鴎外の日記

  • ドイツ留学中の大部分をカバーした『独逸日記』
  • 長野から新潟にかけての足跡をまとめた『北游日乗』
  • ある時期に名前をつけて綴じた『小倉日記』
  • 最晩年の4年半にわたって書かれた『委蛇録』
  • 詩歌集『うた日記』
  • 日記とは少し違うもので、日記を総合して自分の年譜を書いた『自紀材料』

この中で、『うた日記』は、詩歌集の在り方そのものに日記の概念が出てくると指摘。これが最晩年の作品『渋江抽齋』や『伊沢蘭軒』、『北條霞亭』という、一見、無味乾燥に見える史伝につながっていくといいます。「“いかに小説の概念を押し広げても小説だとは言われまい”。これは鴎外の言葉です。このはみ出していく気概といったものが、密かに込められています」。

一方、地図については、鴎外が明治42年に自分で立案して刊行した『東京方眼図』(冊子)を紹介。これは簡単に言えば東京の様々な地域を分割して地図にしたもので、手の平に収まる細いサイズで目的地をすぐに探せます。当時は非常に画期的なものであったため、わざわざ森林太郎立案と表紙に大きく表して刊行したといいます。

写真:東京方眼図

続いて、河原温の作品について紹介しました。

  • 『Date Painting』(日付絵画/正式には『Today』シリーズ)

    河原温の代表作の一つであり、キャンバスに今日の日付を書いていくシリーズ。その日の12時までに日付を描き終え、その日付の色はどのように選ばれたかも記録。この作業を続けながら、河原温は世界を旅した。

  • (※以下は全て「I」という主語がつき、シリーズとして継続)

  • 『I MET』

    今日会った人の名前を順番にタイプライティングし、これをほぼ毎日続けていくと、タイプライティングから書籍へ、さらに分厚い本になる。

  • 『I WENT』

    滞在地域のどこを動いたかを赤い線をつけて残した。

  • 『I READ』

    読んだ新聞記事を記録した。

  • 『I GOT UP』

    今日の起床時間を絵葉書で知人に送った。

  • 『ONE MILLION YEARS』

    時間を今日という単位でつかまえながら、膨大なものに近づけた作品。過去の100万年と未来の100万年をタイプライティングし、さらにバインドして次に本にするという、とてつもない行為自体が芸術作品になっている。

これらは全て記録で、この『Today』を発表する直前の河原温は、“これが絵画であるかを疑うあなたは、文学と美術を全く別々の芸術ジャンルであるという決定的な観点に立っていますね”という挑発的な言葉を残したといいます。『Today』で描いた日付を記録した100年カレンダーの小さな一点一点が一日を示し、このように自分の時間を総合していくことが芸術になる。これを定義とすれば、鴎外が日記を綴じて総合化し、『自紀材料』としていく手際と、河原温の手際が重なっていると感じるという平出氏。「鴎外の最後の日記である『委蛇録』は漢字が並んでいるだけで日本語とも言えず、最初の日本文の日記体から、最後はこうした状態へと鴎外の意識は近づいていきます。特に、この『委蛇録』と河原温の『Today』は、私には重なって見えます」。

河原温の作品に表れる広大な時間のつかまえ方と、鴎外が文体を変えつつ最後に史伝三部作などの作品の中で、小説の形式をはみ出しながら、超えながら、小説でなくてもいいという構えで書いていくこと。両者の表現について、「この時間のつかまえ方、そこに現れる時間や空間の広大さ。個人の感覚を超えたところに個人が触れているという、微妙な接触の界面のようなものを感じさせ、これは文学や美術でなくても我々は触れられる。むしろ形式を突き抜けていけばいくほど、同じところに連れていかれるという壮大な時空を感じさせます」と強調しました。

平野氏は、「河原温の本人がわかっていることを背景としながら、数字のみが描かれている世界。鴎外の一見、河原温的に数字や会った人のことだけが書かれた日記と、そこから膨らんでいった世界の認識、さらに小説的に背景や様々なことが描かれている作品が生まれてくることとの間について、もう少しお聞かせください」と平出氏に質問しました。

写真:平出 隆氏

「『I READ』や『I MET』には、「I」という主語がある。このIが私に当たりますが、海外にもIがあり、一人称があり、そして時制がある。readではなくread(過去形のread)、goではなくwentであるという、一枚の絵画にも主語と時制があることを徹底的に打ち出しながら、河原温が日本から飛び出した日本人で、そして世界にあのような作品を表していったのです」。

さらに、河原温は姿を現さないことで知られ、自身の展覧会にさえ姿を見せなかった。あのような作品を表すこととセットで、作家自身を消す振る舞いを生涯にわたってやり続けた。それが非常にスリリングであり、かつ鴎外の在り方と重ねさせてくれると平出氏は補足します。鴎外も個人と軍医の役割の間にありながら、『東京方眼図』は森林太郎として立案していると言ったり、遺書にも「森林太郎として」という言葉があるといいます。「大きな類としての私と、一個の私との間に振幅をつくって行き来する。この運動そのものの中に鴎外の文学の秘密があると捉えています」。

2作品の主人公たちにみる
眼差しの違いと功罪を明らかにしない共通点

20代前半から日本語で書き始めたというキャンベル氏は、様々な文体を読みながら自分の文章を作る力を獲得し、また鴎外の文体を意識的に読んだことが大きな力を与えてくれたと振り返ります。鴎外の晩年に書かれた史伝から読み始めたのは、幕末に活動した渋江抽斎や狩谷棭斎や北条霞亭といった人に関心があり、自身の研究対象もそこに向かっていったためで、「文体が素晴らしく、理知的なものと情動的なものがストイックな文体の中に融合されていることを感じ、かなり意識的に読んでいた時期があります」。

写真:ロバート キャンベル氏

今回、『ヰタ・セクスアリス』を読み返してみて、実はいろいろな意味で『舞姫』と反射しあっていることに初めて気づいたというキャンベル氏。「『ヰタ・セクスアリス』の金井は、軟派か硬派という書生の世界、あるいは異性愛者対同性愛者という対立構造を経験します。勉強もせずに女性ばかり追いかけ、性愛に身をやつして落ちていく人たちに対する金井の眼差しと、『舞姫』の太田自らに対する眼差しでは、かなり異なります」。一方で、『舞姫』との共通点は、「平野さんが基調講演で言われたように、功罪をはっきりさせないことです。鴎外は様々な立場に立ちながら、功罪や道徳的な規範を提示せずに問いという形で出していくところが両者に共通していると感じました」と、キャンベル氏は指摘しました。

それぞれの小説の冒頭近くで、“すでに書いたものはどんな状況で、いつまでに書くべきかを、書く現在において認識していた”と記されていると、キャンベル氏は補足します。例えば、江戸時代の『百物語』のように、ろうそくが燃え尽きるまでに何話怪談を語れるかといった、時限付きの物語には空間がある。これは江戸時代の口承文芸、舌耕文芸といわれるものの一つの特徴で、幕末から明治初期にかけての講談や講釈の中にも、読み切りや続きものといわれる話があるとし、「時間を定めることは普遍的な芸能のあり方で、それを物語の構造の中に明示して織り込んでいく。こうしたことから、私は時限付きの物語と呼んでいます。時間、あるいは時間と共に人物が向かう結末が初めに示されます。または、制度として時限を伴う物語といったものが明治時代以前から多数ある中で、それと呼応する部分があります」。

一方で、『舞姫』と『ヰタ・セクスアリス』がその点で異なることについて、キャンベル氏は「太田が仲間と共にサイゴンの港に繰り出して遊んでいる間、ボーイが明かりを消すまでに書くことを自らに課すというのは、誰もいない場所でしか書かない物語であることを示しています。もう少し深読みすると、当時、主要国の中で日本が置かれていた状況と、フランスによって植民地化されていたサイゴンの状況に、時間時空を際だたせる一つの効果がある。特に初版の雑誌に掲載されたバージョンを読むと感じ取ることができます」と明らかにしました。

写真:ロバート キャンベル氏

『ヰタ・セクスアリス』には誰なのかが示されず、最初と最後だけ出てくる語り手がいて、そこを一つのルールとして、金井の6~23歳までの出来事が書かれています。「一晩かけて息子のことを考えながら、家の中という私的な空間の中で描かれた時間として提示されている。物語の構造としては共通してはいますが、それが意味することはかなり異なると思っています」。

平出氏は、キャンベル氏が史伝から入っていったことに感銘を受けたとし、「もちろん、書かれていること自体はご専門の江戸末期の状況や事柄を踏まえている。資料の探索から始まり、そのプロセスも書かれている。資料が書かれるというのは、資料ではわからないことが書かれるということだ」と分析します。つまり、日記も同様に、日記の記述は日記そのことではなく、広がっている余白に触れることに大きな魅力があるのではないかと問いかけました。続けて、「キャンベルさんが最初から史伝を読んだのは、その魅力に初めから触れていたのか。日本語を書きながら、感じ方の変化があったのか教えてください」と質問しました。

キャンベル氏は当時、古典中国文学を学んでいる中で、例えば『文選』や『史書』など、歴史的な記述を読みつつ、並行して日本語を学びながら、三島由紀夫や谷崎潤一郎といった現代小説を読み始めたといいます。「それは結びつける接点を探していたわけではありません。その後、夏目漱石の『吾輩は猫である』などは辞書を引かずに読めるようになり、鴎外の史伝の漢文脈に慣れてきた私には読みやすく、江戸時代の言葉でいうと通俗化というのか、その和らげられたところに表現された喜怒哀楽の運びが感じました」と振り返りました。中でも、鴎外の短編『寿阿弥の手紙』を読むと、日常の小さな喜びや複雑な気持ちの書き方が当時のキャンベル氏の胸を打つ部分があり、これから自分が表現していきたいものだと感じたといいます。

そして、もう一つは等距離だといいます。日本語が母国語ではない者が日本語の様々な文体を見ると等距離に見えるもので、つまり月が照らして見える地球は地域が違っても、距離がないと思えると説明しました。「江戸自体の文体の中には候文もあれば俳文や戯作文もあり、そして漢文、読み下し文もあり、そのバリエーション自体が日本語として理解され、そこにも深い関心や興味を持ったことが、森鴎外の史伝から入っていった理由の一つでしょうか」。

写真:青山七恵氏

続いて青山氏は、「今日初めて『東京方眼図』を拝見しましたが、コンパクトで、モノとしても美しく実用的なものです。ドイツ時代の経験や鴎外自身の鳥瞰的なモノの見方の素養があって、こういうものを作ったのでしょうか」と、平出氏に質問しました。

平出氏は、事象的に調べていないが、明らかにここに現れているのはグリッドだと指摘。「ドイツに限らず西洋的な思考の中には格子状に区切って、その格子等の前提との関係を測る方法があります。鴎外はドイツ滞在中に、その思考の徹底性を経験し、日本にもこうしたものがあっていいのではないかという発想と、もう一つは、鴎外自身の中でそうした思考があらかじめあり、それに同期するものが現れたのではないか」と推測しました。

これを受けてキャンベル氏は、地図的なモノの見方が物語にどのように投影されるのか。グリッドとして物語にどのように反映されるのかは、鴎外を考える上では非常にいい材料だと述べました。「物事を定量的に測ることに特化した研究や、モノを収集することによってある意味、究理学的な方法によって、近代的な眼差しを持っていく。そこに鴎外は若いときから自覚的な深い関心を寄せていたので、街を歩きながら再現できるかどうかを考えていたのではないでしょうか」。

さらに、空間再現性が高いものが良い文章の一つの基準になっていて、「それが文体としては漢文脈だったのでしょう。そういう文章ばかりではありませんが、区分といわれるものの中にそのまま空間を再現できる、特に、“記”といわれる文体については、漱石もそうですが、極めて若いときから鴎外世代には意識していたと思います」と回答しました。

ここで平出氏は、先に紹介した詩歌集『うた日記』は、様々な形式の詩歌が書き分けられていると同時に、日記というタイトルに現れているように、様々な角度から日露戦争について書き込まれていると明らかにします。戦争の詩も入っているが、なだらかな谷のある叙情詩のように読めるものが、時間と場所を特定され、つまり瞬間と詩が結びつく関係でまとめられた一冊。「そこにはグリッドや瞬間、日記的な時間が読み取れ、鴎外の秘密や迷宮の深さを感じさせます。さらに小さな瞬間と大きな空間を同時に感じる、鴎外の文学の秘密が現れています。宇宙の中で生命が明滅しているような感覚。個として、しっかりある個ではなく、明るかったり、消えかかったりしている、そうした幽さを含めた一点を鴎外はつかまえることができる。そういう優れた文学者であり、文学者という枠を超えた存在だと思っています」。

100年前に亡くなった鴎外が書き残したものと、目の前の現状や時局を重ね合わせることには、研究者として慎重でなければならないとしながらも、この時期に私たちが直面している政治的、地政学的な紛争を含めた状況を重ね合わせずにはいられないとキャンベル氏は訴えます。「不可抗力とは何か、自己責任とは何か。それから国家と個人、その関係性をどう捉えるのか。鴎外の小説やエッセー、翻訳、科学的な営為も私たちに多くの問いや示唆、あるいは励みを投げかけている。いま世界は暗澹たる状況で、日本ではまさに政治の季節を迎えています。個として生きている時間をどう切り開いていくのか、鴎外が様々な形で考える道筋をつけてくれていると感じます」と結びました。

写真:平野啓一郎氏

平野氏は、鴎外の個々の作品が一つの問いであり、『舞姫』の太田にしても一つの問いで、それが文学者としての鴎外の優れているところで、キャンベル氏が言われたように、僕たちに様々なことを考えさせる力になっているのではないかと述べました。最後に、「多面的に活躍した巨大な存在である鴎外は、何を話しても断片を話しているようにしかなりません。だからこそ語り尽くせず、別の機会では鴎外のこの面、さらに別の機会ではまた違った面についてと、語り続けられる存在でもあります。引き続き様々な場所で皆さんと共に鴎外を読み、語れる機会を持ちたいと思っています」と、パネルディスカッションを締めくくりました。

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